主体性のない稽古は無駄

武術の稽古を進めてゆく上で、良い師を探して教えを受けることが上達するための近道です。
しかし、教わるにしても師にすべてを任せきるのは良くないと感じます。
これは師に対する信頼とは別問題です。




自分自身が自らの抱える問題や課題を認識し、それに沿った稽古をしなくてはいけないという意味です。
この認識がある人は、稽古の中で鋭い質問をすることができるはずです。

動きの再構築

古いタイプの師ほど、技に対して言語的な説明を極力しないようにしていると思います。
技は見て受けて覚えろ、というタイプですね。
このような稽古をする場合、与えられた情報から自分で自身の体の動きを作ってゆく必要があります。
頭の中に目標とする動きの明確なイメージを作り、自分の動きをそれに近づけてゆくことになります。
近づけてゆく過程で動きの意味、有効性を知ることができます。


このように、教わる側が自ら探求することが求められるわけです。
言われたことをやっているだけでは、技が向上しません。

一人にて立つ心構え

稽古というのは、他でもない自分自身のためにあります。
ならば、教えてもらえるという師への依頼心を捨てるべきです。
技を盗めという表現はこの依頼心を捨てるという心境から生まれたものだと思います。


個人の能力に違いがあることは問題ではありません。
問題となるのは、稽古というものを真に必要であると捉えられるかどうかです。



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